2018年12月19日水曜日

燕岩岩脈

国指定天然記念物 燕岩(つばくろいわ)岩脈
指定年月日 昭和9年12月28日(国指定)
所在地 甲府市御岳町 所有者 金桜神社

燕岩岩脈は黒富士(1,760m)の北方を中心とする放射状の黒富士岩脈のうち、幅35m・延長1km以上に亘って露出する規模の大きい岩脈として学術上貴重であると共に、柱状節理や板状節理が発達していて景観的にも優れていることから天然記念物に指定された。
黒富士火山の活動は今から約100万年前に始まり、何回も大火砕流を発生させ、その堆積物は釜無川や甲府盆地南縁の曽根丘陵に達している。燕岩や太刀岡山(1,259m)等の黒富士岩脈群や円頂丘は、約50万年前の黒富士火山の火山活動末期に火砕流の割れ目にマグマが貫入したもので、岩質は角閃石石英安山岩である。この岩脈には岩燕が営巣する事から燕岩と名付けられている。
昭和62年3月15日              山梨県教育委員会  甲府市教育委員会

たもとの案内板の説明。写真手前の左に上がっている燕岩岩脈の尾根を登りました。


マウントピア黒平は甲府市最北端の黒平の宿泊施設です。管理人の藤原さんには、黒平周辺の地名や歴史などのお話を何度も伺っていて大変お世話になっています。静岡山岳自然ガイド協会の研修ということで初めて泊まりました。甲府の街から1時間はかかるマウントピア黒平です。


入り口近くの炭焼き窯。ちょうど火が入った入ったということでした。


季節を感じる干し柿が吊るされていた食堂。


コテージは5人泊まれて10,500円。食事は自炊です。食堂で食事もできます。


早めに到着した仲間と地図読み。燕岩岩脈に行ってみることにしました。施設脇の沢の名前は「ラムネ沢」。昔黒平には黒平温泉という鉱泉があって古い地形図には温泉マークが入っています。マウントピア黒平北の下黒平集落の奥です。ラムネという言葉が炭酸泉に通じます。


 ⛬ は地図記号で史跡・名勝・天然記念物を示します。からまでトレースしてマウントピア黒平にもどりますよと準備した地形図、赤い線は尾根で青い線は沢です。マウントピア黒平の前の道路の東まで尾根が続いているというのポイントからスタート。の見極めが難しい。


燕岩岩脈に乗っかって登場した古い大きな切株。


尾根に乗っかるという意味がストレートにわかる、燕岩岩脈からの黒富士。


おやつは韮崎のうさぎやさんの大福。


燕岩岩脈から北方向が良く見えました。黒平集落の奥に金峰山。


黒富士北の稜線。手前のピークが1275m標高点。


ミミ石はかっこいいです。


慎重に行動してギリギリロープは出さないで済みました。


両側がスパッと切れた燕岩岩脈です。


こんな険しい尾根の上にもあった林班の境界標。


もこもこの岩が面白かった、きっと風化した柱状節理のトップです。


初冬の里山らしい写真です。カメラのシャッターを思わず押してしまいました。


のポイントをうまく拾って、マウントピア黒平に通じる細長い尾根から見えた燕岩岩脈のシルエット。この時期は16時が行動のリミットでしょう。


マウントピア黒平のお風呂。あったまりました。


夜もスライドでしっかり研修した後は宴会です。光岳南のオオシラビソの枝を入れたアルコール。高級ラム酒に代わるという触れ込みだったのですが・・・


2018年12月13日木曜日

両神山

秩父の両神山にも行きました。前日までの雨が上がって思いのほか青空が広がった遅めの朝。普通に日向大谷から入山。駐車場代が500円かかります。


両神山荘わきにサクラ。この時期に出会うと得した気分です。


あたたかい日で12月になったとは思えませんでした。軽アイゼンが必要かと考えたけど全く必要ありませんでした。Тシャツになったくらいでした。


七滝沢に入りました。ちょっと厳しそうな感じの登山道。初めてのトレース。


滝を眺めながらのルートではと思いきや、左岸についた昔の仕事道を行く登山道でした。


尾根に出る手前、沢が傾斜を増す辺りからが鎖場連続でした。この時期なので落ち葉と前日までの雨でぬれていて歩き難い、滑りやすい登山道でした。


鈴が坂を過ぎて尾根に上がると山頂方面が見えます。産体尾根の文字が見えます。


急な登りになり鎖が登場します。


以前はここが一番難しかったのですが。ステップが設置されていました。強度が心配なステップです。産体尾根の標識からここまでがとても危険です。


いったん傾斜がなくなると登場する2つの神社。両神神社も御嶽神社も狛犬はオオカミです。


御嶽神社の立派な彫り物。


秩父の武甲山。


両神山山頂はとても狭いです。


赤岩尾根が良く見えました。奥には八ヶ岳があるはずですが見えませんでした。


日向大谷コース途中にある無人の清滝小屋。


両神山は修験道の山でした。山中にたくさんの石仏があります。○○童子と書かれたものが一番多く登場します。調べてみたら山頂手前にある本社(御嶽神社と両神神社、山頂北の稜線上に龍頭神社)への丁目石という意味合いの様でした。亡くなった幼子の戒名かななんて思ったりもしましたが、全く違うようです。修験道で登場する不動明王の眷属(けんぞく、簡単に言えば家来)の三十六童子の名前が刻まれた丁目石としての石塔が正しいようです。三峰信仰、御嶽信仰、修験道とからまり合っていてなんとも難しい・・・


本当に陽が短く、あっという間に夜が迫ってきました。


2018年12月12日水曜日

野田山

歌川広重の浮世絵「五十三次名所図会 蒲原 wiki」です。富士川の東から描いています。大きく描かれているのが野田山です。


静岡県教職員互助組合様のガイド山行でした。だいたい40名くらいの参加者なので、4人のガイドでのガイディング。登山に不慣れな方も参加するので、ガイドレシオとしては8~10人です。ガイドレシオというのは、山行の内容に応じてひとりのガイドが担当するお客様の人数ということです。富士川の河口近くの野田山に登った山行でした。国道一号線を走っている写真です。正面の山は浜石岳。今年2月に行きました。野田山は右側にある532mの山です。


東海道本線富士川駅集合。東海道です。東海道五十三次です。東海道吉原宿と蒲原宿の間にある現在の富士川駅、東海道本線が開通した明治22年(1889年)には岩淵駅という名前でした。何で岩淵駅だったのかという話しがかなり面白いです。岩淵村は東海道の富士川渡し場がありました。幕府の方針で(橋を作らない)生業を決められてしまったというイメージです。この地名には馴染みがあって「岩淵の鳥居講」という記事を書いています。興味のある方はぜひクリックしてみてください!
富士川駅が岩淵駅だったというのは抜け駆けです。鉄道という文明開化の権化みたいなものが通るという時、交通の要衝を担っていた岩淵の人たちの感性は鋭かったんだと思います。積極的に駅の設置の誘致をしました。江戸時代の東海道の駅からすれば吉原宿の次の蒲原宿に駅ということになりますが、その宿の間にあった重要な任務を背負っていた(富士川の渡し)岩淵村の人たちは頑張りました。蒲原に先駆けて東海道の駅の誘致に成功したという岩淵駅が現在の富士川駅。蒲原駅は一年ちょっと後に出来ますが、紆余曲折があって新蒲原駅が東海道蒲原宿に近い駅ということです。


富士川駅横の小さな公園は見所です。写真の石柱はこの場所にあったものではありません。富士川の上流の芝川あたりのものだと思います。芝川には富士山の溶岩流が流れて出来た柱状節理の玄武岩がたくさんあり、そのまんま柱として使える岩が取れます。ディスプレイされた柱状節理の岩の間の向こうに富士山が鎮座する景色です。


野田山というのは総称で、地形図には金丸山という表記。金丸山の西に弘法大師の伝説の大師堂があって、大師堂までの丁目石が建立されていました。


山梨では見ることが出来ないフユイチゴ。食べれます。


標高500mくらいにある野田山公園から見た富士山。夜景が素晴らしいということでテントを張る人がいました。車で登って来れます。


目的の地になっていた大師堂。弘法大師の大師です。昼食を取りました。


富士川の河口。富士川の上流に住んでいるわけですから感慨深い景色です。富士川舟運でつながっている土地です。ニュースで盛んに言われているのが桜エビの不漁。富士川河口近くの河川敷には干し桜エビを作る景色が風物詩ということですが、不漁なんで・・・


山から下りてきたら、ミカンを作っているおじさんがポンカンもってけ!と籠ごとくれました。ちょっとびっくり!8人の方と歩いていて、一人当たり10個もいただきました。


蒲原宿の裏山は御殿山として整備されています。写真はのろし台といわれる場所。


ツワブキがたくさん咲いてました。


蒲原宿に近い東海道本線新蒲駅前の桜エビのモニュメントと船。


無事山行が終わり、富士川を遡って韮崎に帰るときに見えた景色。とってもきれいに富士山から愛鷹山のスカイラインが見えました。