2017年11月27日月曜日

親不知のウェストン

ガイド協会のイベント「山自然ふれあい集会2017」の帰り、寄り道したい場所がありました。北陸道の越中から越後に向かう難所、親不知です。親不知子不知おやしらずこしらずです。北陸道最大の難所、断崖と波が険しいため、親は子を子は親を省みることができないほど通過が険しい道だということです。波打ち際を行くしかなかった昔の旅人は命懸けで通過したようです。波間を見計らって狭い砂浜を駆け抜けて、大波が来ると洞窟などに逃げ込むんですが、途中で波に飲まれる者も少なくなかったといわれています。「大懐、小懐、大穴、小穴」というのは逃げ込む洞窟の名前です。約15kmの難所。


京都と新潟を結ぶひとけた国道、国道8号線です。親不知での国道8号線は四世代道路と呼ばれたりします。波打ち際を命懸けで通っていた時代が第一世代。明治16年(1883年)断崖を削って北陸街道(国道8号)がつくられたのが道第二世代。現在は親不知コミュニティーロードという名前の遊歩道として整備されています。天険トンネルが開通した昭和41年(1966年)が第三世代。写真がそれです。そして海上高架橋にびっくりする北陸自動車道が開通したのが昭和63年(1988年)で、第四世代です。


遊歩道の親不知コミュニティーロードにはウェストンがいます。富山から山梨に帰る途中ぜひ立ち寄りたい場所でした。


ウォルター・ウェストン(Walter Weston 万延元年1861年ー昭和15年1940年)イギリス人宣教師。日本に3度長期滞在した。日本各地の山に登り『日本アルプスの登山と探検』などを著し、日本アルプスなどの山や当時の日本の風習を世界中に紹介し、日本山岳会誕生のきっかけを作った登山家。日本の近代登山の父とも呼ばれます。

・明治21年(1888年)-明治27年(1894年)熊本、神戸に滞在
・明治35年(1902年)-明治38年(1905年)まで2度目の来日、横浜市に滞在
・明治44年(1911年)-大正4年(1915年)に再び横浜市に滞在

明治29年(1896年)「MOUNTAINEERING AND EXPLORATION IN THE JAPANESE ALPS(日本アルプスの登山と探検)」をロンドンで出版。「日本アルプスの登山と探検」 青木枝朗訳 1997年岩波文庫版の中の親不知登場を読んでみました。


明治27年(1894年)夏の7月から8月のだいたい1ヶ月で登った山は、 ・大蓮華(白馬岳)
・笠ヶ岳・常念岳(一ノ沢遡行)・御嶽山 ・身延山+富士川下り(富士川舟運盛んな頃で乗り物として船に乗ったわけです。御嶽山のあと権兵衛峠を越え甲州街道に入り韮崎から身延に出て富士川を岩淵まで下って、東海道線で神戸に帰りました。)という内容でした。

先ずは大蓮華と呼ばれていた今の白馬岳2932mを目指すのですが、そこまでのアプローチがなかなか面白いんです。直江津からの信越線が上野まで全線開通したのは明治26年のことでした。ウェストンはその翌年の明治27年(1894年)に上野から汽車に乗って「太平洋から日本海の岸まで、本土で一番幅の広いところをその日のうちに横断した」などと書いています。翌朝は船で直江津から糸魚川まで移動します。船旅は約3時間。糸魚川に着いて、雁木造り(雪国の雪よけのひさし)が連なる糸魚川の街並みにふれたり、なぜ冬の日本海側の地域は降雪量が多いのか?と気象に関する説明したりしています。そしてはっきりとした目的をもって親不知に向かっています。その部分を訳本から引用します。
「この花崗岩の絶壁こそアルプス山脈の起点であり、ここから真南へ約100マイル(160Km)の美濃平野(濃尾平野)まで行って初めて高度を失う。」 つまり北アルプス(飛騨山脈)はこの親不知が始まりなのでぜひ訪れよう!ということだったのだと思います。素晴らしい発想だと思います。


これは僕の想像です。ウェストンにとって日本に来て5年目のシーズン、単純に山頂に立つということに飽き足らず、北アルプスの全体像を理解したかった1ヶ月におよぶ山行だったのではないでしょうか。その全体像を意識したからこそ親不知スタートとなったのではないでしょうか。登山道なんてなかった明治時代です。その中で北アルプス北部の最高峰の白馬岳に登ること、最南端の御嶽山(すでに登っていたのですが、日本人の当時の講中登山の様子を事細かに観察、考察して記述しています。)は絶対に登ると強い意志を感じます。この山行で、それまで何度かトライして登ることが出来なかった笠ヶ岳にも登っています。この年の翌年にイギリスに帰って、「MOUNTAINEERING AND EXPLORATION IN THE JAPANESE ALPS(日本アルプスの登山と探検)」をロンドンで出版しています。北アルプス(飛騨山脈)にひと区切りつけたいと思ったから、その出発点の親不知にわざわざ訪れたのだと思います。大蓮華(白馬岳)に直接行かないで、糸魚川でもう一泊しています。2度目の日本滞在中の登山記である「The Playground of the Far East1918年」日本語訳「日本アルプス再訪」では南アルプスの登山記が中心です。


明治16年(1883年)断崖を人力で削って北陸街道(国道8号)がつくられた国道8号線が、こんな感じに親不知コミュニティーロードとして整備されています。ここをウェストンも歩いているわけです。


晴れていればということなんですが・・・


ウェストンとの関係はわかりませんが、北アルプスの主稜線からダイレクトに、ウェストンも出発点にした親不知の海岸に通じる道です。栂海新道つがみしんどうの出発点です。


もう一か所訪ねたい場所に向かいます。夕闇が迫って焦ってました。青海黒姫山おうみくろひめやま1221mに陽が沈んでしまいました。


雪がついた雨飾山が見えました。左の黒いでっかい山は駒ヶ岳。


糸魚川を発ったウェストン一行は、糸魚川から歩いて今の大糸線の平岩集落まで来て泊まります。その宿が当時の小滝村村長の中倉利忠治の家。


案内板の当時の写真。家の屋根の様子や、馬がいること、日本人のつけている大きな菅笠(大きすぎる笠だとウエストンは言っています。)、大八車なんかが当時をものがったている写真です。


ここから大所川の難路を蓮華温泉に向かって歩き始めたウエストン一行。1日かけて蓮華温泉まで行き、そこに泊まり翌日大蓮華、白馬岳に登ります。稜線に出て富士山が見えたなどと書いています。もう一泊蓮華温泉に泊まって翌日下ります。


そのまま平岩の長倉村長の家に立ち寄り会話して旅を続けます。そこらは淡々と書かれています。上野から直江津の汽車、鰍沢から富士川河口に近い岩淵の船旅以外はすべて歩いている旅です。写真は現在の大糸線の平岩駅です。


2017年11月25日土曜日

立山自然ふれあい集会2017

立山自然ふれあい集会2017ということで富山県に行って来ました。公益社団法人日本山岳ガイド協会のイベントです。内容は、全国代表者会議、全国遭難対策研修会、全国自然環境会議の三本立てのガイド協会の定例行事です。長距離をドライブしながら富山に入りました。富山平野の景色の写真です。


ところ変わればそれぞれの自然と人々の営みがあります。富山平野を車で走っていてどこか既視感がありました。僕の住んでいる山梨は甲府盆地です。盆地の周りは高い山々に囲まれています。そこを流れる河川は平野部に出ると扇状地を形作り、釜無川、笛吹川に流れ富士川となって駿河湾に流れ込みます。富山平野も扇状地です。それが既視感だと思うのですが、富山平野は甲府盆地のそれとは規模が違います。そして決定的に違うのは富山湾に直接流れ込むところです。1,000m以上の深さの富山湾です。3,000mの立山や剣岳から一気に富山湾に流れ込む河川が大量の土砂を運んでくるわけです。富山湾が浅い海だったら、富山平野はもっと広くなっていたかもしれません。
立山連峰を見ながら走る富山地方鉄道の電車。


田んぼが広がる風景の中に民家がぽつんぽつんと離れてあります。その民家を取り囲むように林があります。屋敷林です。屋敷林は「かいにょ」と呼ばれ、諸説あるようですが垣根がなまって「かいにょ」だとか。南側の山から吹き下ろす風と西からの雪と雨を防ぐための林です。家は東向きになっています。
カイニョと呼ばれる屋敷林につつまれた民家が100mほどそれぞれ離れて散在しています。まとまった集落ではなくぽつんぽつんと離れています。耕作、防火に利点あり世界的にも珍しい眺望だそうです。田んぼの近くに家があると農作業や水の管理がしやすいし、何よりそれだけ水が豊かな富山平野なのだと思います。「散居村」と呼ばれる形態です。
「散居村(さんきょそん)は、広大な耕地の中に民家(孤立荘宅)が散らばって点在する集落形態。一般的には散村(さんそん)と呼ばれる。Wikipedia」


田んぼの中や家の近くにはたくさんのお地蔵様。雨ざらしのもの、石の祠にあるもの、お堂の中のものといろいろです。それぞれに頭布やよだれかけをし、お供え物やお花が飾られ大切にされていす。豊作や商売繁盛を願っての民間信仰でしょう。


神通川、常願寺川、白岩川、上市川、早月川、片貝川、黒部川がそれぞれ見事な扇状地をつくり出し、しかもこれらの扇状地の扇の先端部が重なりあって「複合扇状地」が広がって富山湾に注ぎます。それが富山平野です。約3,000mの標高差を一気に流れ下る急流河川は昔から水害に悩まされてきた暴れ川でした。それは治水の歴史です。


山座同定です。毛勝三山(けかちさんざん)です。左から毛勝山2415m(けかちやま)、釜谷山2415m(かまたんやま)、猫又山2,378m(ねこまたやま)です。


一番高い尖がったピークが剱岳2999m。


雪で白くなった山は立山です。


白い薬師岳2926mと、左の黒く目立つ山は鍬崎山2090mです。


北アルプス北部の奥深い稜線に行くための道。左は立山、剱方面。右は薬師岳、雲ノ平方面ということになります。


立山の正面玄関ともいえる芦峅寺の集落。豪雪地帯です。道路の真ん中、黄色の追い越し禁止のラインの横に消雪パイプです。いろんなパターンがあるようですが、基本は汲み上げた地下水を道路に流すことによって雪を融かすという仕組みです。


雄山神社。すぐ横に立山博物館があって是非歩いてみたいところでしたが、時間がありませんでした。昔から立山ガイドの拠点として認識されている場所です。立山信仰の出発の場所です。


日本一の瀑布と言われる称名ノ滝は遠くから見るだけとなってしまいました。


常願寺川の流れ。350mの称名ノ滝は室堂からの流れですが、本流は鳶崩れや立山カルデラからの流れです。鳶崩れは静岡県の大谷崩れ、長野県の稗田山崩れとともに日本三大崩れのひとつとされています。


立山黒部アルペンルートの富山県側の登山口が、立山地方鉄道の立山駅です。


ガイド協会のイベント「立山自然ふれあい集会2017」会場のホテルにやっと着きました。


2017年11月21日火曜日

上高地の石碑

上高地ネタの今年の最後です。上高地をガイドするのに自分自身忘れないよう、上高地にある石碑のことを調べました。
岐阜県側からでも長野県側からでも、上高地はマイカー規制されているので、バスターミナルに着いてから登山が始まります。涸沢や槍ヶ岳に向かう道は梓川左岸に着いています。上高地バスターミナルを発って1時間弱で明神です。梓川に架かる明神橋を渡って梓川右岸にある嘉門次小屋です。上條嘉門次(弘化4年1847年170年前~大正6年1917年100年前)、上高地で猟師、樵(きこり)、山案内人として有名な嘉門次の小屋です。


嘉門次小屋の囲炉裏
シーズン中は燠おきの周りにぐるっと、くし刺しにした岩魚が焼かれます。奥の板壁には愛用の銃とウォルター・ウェストンから贈られたピッケル。


上条嘉門次は日本近代登山の父、W・ウェストン夫妻の山案内人として知られています。上高地で猟師をしていた嘉門次は、14歳にしてはじめてカモシカを撃ち、生涯でクマ80頭、カモシカ500頭は仕留めたと伝えられるほど、抜きん出た腕の持ち主の猟師でした。32歳の時には明神池のそばに自分の小屋を持ち、遠くは黒部まで足をのばすほど上高地一帯の地形を熟知していました。嘉門次の案内で槍ヶ岳に登頂したW・ウエストンは、とりわけ嘉門次の人柄と技術に敬服し、著書「日本アルプスの登山と探検」でも嘉門次をたたえています。すっかり評判になった嘉門次は、以降多くの有名人を山に案内しました。
上高地を愛した嘉門次とW・ウエストンの2人の親交は20余年におよび、友情の記念として贈られたピッケルが現在も残っています。(嘉門次小屋HP)


嘉門次小屋のご好意で実際に嘉門次が使ったといわれる、ウェストンから贈られたピッケルを手にすることが出来ました。ウッドシャフトのそれはとても軽く、現在のストックとほぼ同じように使われていたんだと思えました。


嘉門次のレリーフが埋め込まれた石碑。小屋の手前にあります。


梓川の流れと六百山。


上高地にある石碑の中で最も有名なのがウェストン碑でしょう。
「ウォルター・ウェストン(Walter Weston 1861年 -1940年)イギリス人宣教師。日本に3度長期滞在した。日本各地の山に登り『日本アルプスの登山と探検』などを著し、日本アルプスなどの山や当時の日本の風習を世界中に紹介し、日本山岳会誕生のきっかけを作った登山家。日本の近代登山の父とも呼ばれます。」


日本の登山界に尽くした功績を称え、日本山岳会が作製したウェストン碑。1937年(昭和12年)ウェストン77歳の喜寿を祝った物でした。滞在中日本のいろんな場所を訪れたウェストンです。関係者が事前にロンドンに住む本人に希望を聞いたそうです。ウェストン碑をどこに設置するかということです。「上高地が良い」と即答したそうです。上高地にウェストン碑が設置されるということを本人もはるかロンドンで共有していたというのは驚きです。ウェストンのお気に入りの場所が上高地だったのです。


ウェストン碑のエピソードはまだあります。製作者は慶応大学山岳部OBの佐藤久一郎氏。詳しい経歴はわかりませんが、㈱キャラバンを作った方だそうです。㈱キャラバンのはじまりは登山史の中の、日本山岳会マナスル登山隊から始まります。マナスル8,163 mは世界8位のネパールの山です。8000m峰の初登頂が各国の威信をかけた競争になっていた時代の国家的な出来事でした。4回目の遠征で成功するわけですが、アプローチのキャラバンで使いやすい靴をという要望に応えて佐藤久一郎氏が作ったのがキャラバンシューズでした。その後市販されるようになり、昭和30年代の登山ブームに貢献しました。キャラバンシューズは大ヒットしたのでした。佐藤久一郎氏は器用な人だったようで、オリジナルのウェストンも作り、その後傷みが激しかったウェストン碑を昭和40年に作り直して現在のものにしました。初めは四角いレリーフだったそうです。今は丸あるいものです。


ウェストン碑のもう一つのエピソード、太平洋戦争中の金属供出からウェストン碑を守った人がいました。茨木猪之吉(いばらきいのきち・静岡県出身・明治21年1888-昭和19年1944)です。明治末から昭和初期に活動した画家です。小島烏水 田部重治 木暮理太郎などの似顔絵は有名で僕も大好きです。昭和17(1942)年、茨木猪之吉によって外されたウェストンレリーフは極秘に東京に運ばれ保管されました。当時敵国だったイギリス人を顕彰する記念碑を保管するなどというが発覚すれば、実行責任者の茨木は非国民として生命も危うかったと思います。茨木猪之吉自身は、ウェストン碑が上高地の地に再び戻って来た終戦後にはこの世にはもういませんでした。昭和19年穂高岳白出谷で行方不明になったのでした。


上高地のバスターミナルから河童橋に向かう左側です。


内野常次郎の石碑。
内野常次郎 明治17年~昭和24年(1884~1949)岐阜県生まれの山案内人です。嘉門次に弟子入りして猟や山の生活を教わりました。いずれ一年を通じて上高地で生活するようになり山案内人としても実力を備え、昭和2(1927)年には秩父宮殿下が穂高岳から槍ヶ岳の縦走を行った際の案内人に選ばれました。後に「上高地の常さん」「上高地の主」と呼ばれ多くの人に愛された案内人だったそうです。槇有恒が「真実の人生に生きた 内野常次郎君 ここに眠る」と書いています。


最後に「山に祈る塔」です。大正3(1914)年に植林された、今のバスターミナル周辺の南のカラマツ林の中にあります。「昭和34(1959)年、長野県警察本部が遭難防止の願いを込め「山に祈る」と題する手記を発行したところ大きな反響があり、全国各地から寄付金が寄せられました。この趣旨に賛同した関係機関や各種団体が合同で「山に祈る会」を結成し、昭和37(1962)年慰霊碑が設置されました。その後、平成26(2014)年に建て替えられました。北アルプス南部地区において、不幸にして遭難された方々の霊を慰め山の安全を祈るため毎年7月1日に慰霊祭が開催されています。」


穂高連峰の界わいのモニュメントも横に設置されています。カラマツの枯葉が積もってました。江戸時代前期に始まった松本藩による木材伐採(元禄時代文です)。文政年間(1818年~1830年)には湯屋(現在の上高地温泉ホテル)が開業、その後上高地牧場(明治18年1885年)、養老館(現在の五千尺ホテル)や上高地温泉場(現在の上高地温泉ホテル)など宿泊施設が営業を始め、初代河童橋の設置など今日の下地となる産業・サービス業が開業。大正5年に上高地一帯が保護林に指定され、上高地は3世紀以上の長きにわたる材木供給地としての役割を終えます。大正時代には日本有数の観光地、僕らからすれば登山基地の上高地が出来あがったわけです。牧草地の名残が今でも徳沢のキャンプ場に見ることが出来ます。そこここで上高地の歴史を今でも実感できます。


上高地バスターミナルから北を見ます。六百山の末端の尾根の岩場、ゴリラ岩というそうです。僕は納得しましたがゴリラわかりますか?


2017年11月16日木曜日

上高地読図

上高地で地図読みをしました。当日はあいにくの雨。11月15日の閉山祭の迫る中の上高地は閑散としていました。


上高地バスターミナルから歩いて5分のアルプス山荘集合。昔は林野庁の保養所として使われていたそうです。今は公益財団法人日本山岳ガイド協会が運営している宿泊施設です。


地図に磁北線を入れます。用意した2万5千図は「上高地」「穂高岳」


持ち運ぶために地図を折ります。折り方のブログ記事はこちら


寒々しい河童橋。
上高地で読図?というむきもあると思います。地形の変化があればどこでも地図読みは出来ます。ただ本当は地図読みに向くところと向かないところというのはあります。


小屋締めをしていた明神館。
上高地はあまり地図読みに向いているとは言えない所。そこで標高点という地図記号に注目して歩きました。標高点は地図上の標高を特定した地点です。記号としては「・」です。プチっていう黒い点のあとに標高がふつう書かれています。三角点の柱石のような目印はありません。ただ沢の出合とか尾根の傾斜の変わる所、小ピークなどに示されることが多いです。なので、地形の変化があるので標高点を特定することは出来ます。河童橋から明神まで ・1514小梨平の東の交差点 ・1532六百沢が登山道と交差するちょっと上 ・1529梓川左岸明神橋手前の左 などの標高点があります。


・1545 標高点。登山道が白沢に架かる橋を渡ったところ、徳本峠分岐です。・標高点は三角点の近くにはありません、地図を使う人がより使いやすいように記入されたサービスという感じがします。つまり地図を読みやすくするために三角点とは別にある程度の範囲で標高を記す、それが標高点です。


・1555 標高点。徳沢の手前の梓川の河原が広がるところです。写真の先に大天井岳方面が見えるところです。残念ながら山座同定は出来ませんでした。地図を読みやすくするために三角点とは別に標高を示す標高点、むかし5万図が中心に使われていた頃は「標高点」ではなく「独立標高点」と呼ばれていたようです。そのなごりが「独立標高点」を略した「独標」という使われ方。槍ヶ岳の北鎌尾根の独標、西穂高岳の稜線の独標です。逆に言えば「独標」は「独立標高点」です。


徳沢園も小屋締め。ここにも・1532 標高点があります。


明神橋の上から見た梓川。ほんのり赤みを帯びたケショウヤナギの幼木。日本では北海道の一部(日高、十勝地方)と、上高地および梓川下流のみに生育するケショウヤナギです。


雨は止んだものの明神岳方面も見えません。


嘉門次小屋は営業していました。外国人がお蕎麦を食べていました。


梓川右岸の遊歩道を歩いて河童橋に戻って来ました。 地図記号:庭園路 遊歩道の地図記号です。正式名称は「庭園路」、庭園路は公園住宅地などで自動車の通行を規制している道路、ということだそうです。


翌朝の河童橋。


前日とは反対の方向に歩きました。もちろん読図の続きです。上高地帝国ホテル


田代湿原。


大正池の北の河原。焼岳が顔を出してきました。


昨日の雨、標高の高いところは当然雪です。白く輝く穂高岳連峰も顔を出しました。


最後の山座同定。昭文社の山と高原地図が活躍します。


朝の霧氷も落ちてしまった上高地のカラマツ林。