2015年12月31日木曜日

2015年 大晦日

今年もいろんな山にご一緒していただいた皆様、お世話になりました。ありがとうございました。



テレビや雑誌の仕事もありましたし、本当の意味でサポートできた山行もたくさんありました。ガイドとしてそんなチャンスを与えていただいたことは有り難いことだと思っています。

たくさん撮った写真の中で、一つだけ選ぶとしたらこの写真です。これは景色というよりも出会いということです。登山を楽しんでいただく切り口の一つとして歴史があります。その歴史を考える上で古道と言う言葉は人を惹きつけます。その古道を考える上で物差しになった出会いでした。そのことを書いたブログ記事です。今年の2月8日のことでした。その時のブログ記事のリンクを張っておきます。長ったらしいですがどうぞご覧ください。古道のベース

5月に会の(静岡山岳自然ガイド協会)研修ということで、御坂峠を越えて七道駅路、五畿七道、飛鳥時代の官道が発掘された河口湖の北も歩きました。富士河口湖教育委員会 杉本悠樹さんにも御登場いただきました。杉本さんお世話になりました。
6月は秩父の古道ということで、イベントをしました。秩父往還の古道の中で重要な釜伏峠。たくさんの方に参加いただいた楽しいイベントでした。12月には服部文祥さんの岳人の取材を受けました。秩父の古道と五畿七道、読図の記事として岳人2月号に掲載予定です。

いたらぬことや未熟なこと、たくさんありますが、日々精進して山の楽しみをお伝えしたいと思っています。来る年もやぶ山三ちゃんをよろしくお願いします!



2015年12月26日土曜日

恩賜林

僕のブログの中にも度々登場する「恩賜林」。山で出会う目印の標石、見たことありますか?
いったいこの恩賜林の本当の意味は何なのかということを、自分としても整理しようといろいろ調べてみました。山梨の山を歩くとき必ず押さえておかなくてはならないキーワードです。長くなります!

恩賜おんし⇒天皇・君主から物を賜ること。
恩賜林おんしりん⇒明治時代たびかさなる水害に苦しめられていた山梨県民のために、明治天皇が、明治44年3月11日県下の御料地のうち16万4千ha(台帳面積約298,200町歩)を県民の暮らしの復興のために御下賜された県有林のこと。山梨県の面積の約1/3を占める恩賜林。

恩賜おんし、結構近くにあります。上野公園の正式名称は上野恩賜公園ですし、井の頭公園も井の頭恩賜公園です。どちらも昭和天皇の結婚を記念して下賜(かし)されたものです。


写真は謝恩碑という、甲府の駅の横にある舞鶴城の一番高いところにある記念の塔です。かなり目立ちます。近くに行くとすっごい迫力です。


舞鶴城公園の中央部に高くそびえる尖塔型の石柱が謝恩碑です。
これは明治44年3月11日県内にあった御料地を、大水害によって荒廃した県土の復興に役立てるよう、明治天皇から御下賜(下賜かし、天皇など身分の高い人が身分の低い人に物を与えること。)されたことを記念して建てられたものです。

使用されている石材は甲州市(旧神金村荻原山)の恩賜林内から切り出されたものです。その採掘、運搬、組み立てには大変な苦労があったといわれていますが、大正9年御下賜10周年を迎える年に碑身が完成しました。
碑の高さ約18.2メートルで、謝恩碑はオベリスク型と呼ばれる古代エジプトに記念碑を、碑台は高さ7.4メートルのバイロン形と呼ばれるこれも古代エジプトに神殿の入り口に設けられた塔状の門の形を模したものであります。                             (山梨県HPより)


この標識、山でよく見かけます。特にやぶ山ではしょっちゅう見かけます。山梨県の山の特徴でもあります。何を意味しているかというと、恩賜林の林班の境ということです。決して市町村堺を表すものではありません。


庶民の目線とお上の理屈、両方こなさないといけないのでなかなか大変な説明になります。

明治時代、水害に苦しめられていた山梨県民のために天皇陛下が下さった山林の恩賜林。先ほどの謝恩碑は「御料地の御下賜に対して県民はひどく感激し、いかに謝恩の意を表すかについて鋭意検討」の結果建設された、ということになっています。  「山梨県恩賜県有財産御下賜九十周年記念誌、平成14年発行」
結果御下賜ということになったとしても、その原因は?実はそこのところが大事なところです。なんで水害が頻発するほど山林が荒れてしまったのか?江戸から明治にかけて理不尽な理由があったのでした。


入会いりあい
山林はこの山国に住む人々にとって、用材、燃料、肥料、飼料用の草木や落ち葉の採取、ウシの放牧などをする大切な場所でした。「入会山いりあいやま入会地いりあいち」と表現されます。昔から人々は山からの恩恵を受けていたわけです。入会山は集落の「掟」に従い利用されていました。その仕組みが確立されたのは武田信玄の時代です。「御林」制度と言われています。森林の整備を図り、集落ごとの採取区域を定め、山の入り口に取り締まり人(山口衆と呼ばれた)を配置するなどの森林管理制度でした。

御林おはやし
江戸時代の官有林の総称。幕府の直轄林とともに諸藩の直轄林 (御山,留山,御建山) をもさす。御林守,山守,村役人などが管理した。入会 (いりあい) 山と違って,一般農民はわずかに雑木下草採取などが許され,盗伐,用益は禁止された。          ブリタニカ国際大百科事典

江戸時代中期、甲斐国は幕府の徳川幕府直轄領となります。①御林(幕府直轄林で、御川除林、御巣鷹山)②社寺領山林③入会山(小物成入会山、村落共同体が所有して産物を採取する山)④百姓林(いまの私有林のもと)と分けられていました。 1724年(享保9年)幕府直轄領になって明治維新までの約150年間の山林の統治です。


江戸幕府が倒され、そして時代は明治となります。 明治政府は天皇を中心とした新しい国家体制、近代的な中央集権国家を築くことを目指しました。富国強兵・殖産興業のスローガンの下、強い国を作るために様々な改革が一気に推し進められました。版籍奉還 廃藩置県 四民平等 徴兵令を公布 学制の導入 太陽暦の採用…

地租改正ちそかいせい
明治の税制大改革です。地租改正がダイレクトに恩賜林と結びつきます。
江戸時代までは、藩や幕府に年貢として主に米を収めていました。いわば物納です。藩によって年貢の負担割合も違いましたし、何よりも明治政府は歳入不足が深刻でした。そこで個人の土地所有を認めて、地価の3%を税額として算出。「地租」を課すこととしました。物納が金納に変わったわけです。土地の種類は8種類と区分されました。皇宮地神地官庁地官用地官有地公用地私有地除税地という種類です。旧幕府直轄林は官林として官有地に含められました。入会山は特定の所有者がいないということで、強制的に明治政府の「官有地」として没収されてしまいました。中央集権国家です。全国画一の山林管理を行うために、それまでの入会慣行による伐採を認めないというスタンスでした。入会地を利用していた人たちは当然納得できません。それまで同様に山に入り採取を続けました。県は取り締まりを強化します。


御料林ごりょうりん
地租改正により官有地になった入会山。同じ森林が明治22年から明治44年までは御料林と呼ばれるようになります。税制改革とは違う、皇室財産の安定化を目指したものでした。管理は宮内省御料局、明治18年に出来た機関です。御料局の目的は、皇室財産を確保し維持発展させること、官有であった山林・原野を御料林に編入して管理経営をすることでした。今でも時々山で見る「御料局三角点」はそのころのもので、当初、境界や面積が不正確であったため境界を査定し測量したということです。入会山に入る人々の権利は制限はあるものの守られていたようですが、御料林は山林経営です。収入第一主義の御料林経営で伐採事業は進められました。が、山を守る植林、造林事業は充分行われませんでした。多くの無林地が放置されるわけです。大水害が何度も起こりました。御料林時代の明治29,31,40,43年に起きた水害の被害は特にひどかったようです。堤防が決壊し、橋や家屋が流され、田畑が流出しました。4回の水害の犠牲者の数は460人余りにものぼりました。


恩賜林おんしりん
いよいよ恩賜林まで来ました!

度重なる水害被害の原因、それは御料林経営にありました。政府や県はその原因を入会山での盗伐だと責任転嫁しましたが、入会山での伐採はもともとあった権利ですし、総伐採量の一割にも満たないものでした。官林にしても御料林にしても、もともと入会林だったわけです。そこには集落の「掟」がありました。掟を破るようなことがあればそれは盗伐となるでしょうが、もともとの入会地に入って掟を守って行われる行為は盗人呼ばわりされる筋合いではありません。それが人々の思いでした。御料局は、山梨での強い入会権をなくして経営業績を上げようとしましたが、入会団体の強い抵抗でそれは叶いませんでした。御料林における山林経営の不振です。そこに度重なる水害です。御両局は山梨における御料林を持て余していたのでした。
結局、山梨における御料林経営をなかったものにしようという落としどころとして、たびかさなる水害に苦しめられていた山梨県民のために、明治天皇が、明治44年3月11日県下の御料地のうち16万4千ha(台帳面積約298,200町歩)を県民の暮らしの復興のために御下賜された県有林。山梨県の面積の約1/3を占める恩賜林。という流れになったのでした。簡単にいえば恩を売って御下賜するということになったのです。それが恩賜林です。


入会山が御林になり、官用林になり、御料林になり、恩賜林になったという歴史的な経緯ですが、最終的に恩賜林という名前の県有林になってしまった、ということです。恩賜林が下賜された明治44年から昭和21年までの36年間、入会地の(県有林になった恩賜林の)入会民の伐採などと取り締まるための林野警察制度を設けます。全国的に見ても例のないこと。全県下で70余名の巡査が配置されました。加えて、恩賜林の管理は、元々の入会権を持つの集落ごとに、恩賜林組合を作って管理させるということも強制的に決めました。

大正時代の南都留郡瑞穂村(今の富士吉田市の北側)の、渡辺瑳美村長の言葉が象徴的です。「自分たち入会民の財産を政府が無理矢理取り上げ、それを県に渡したのを今さら恩賜だからと言ってみても地元入会民には通用しない。そのうえ、自分たちの財産を使用・収益することが直ちに法律違反となって犯罪者にされたのでは『恩賜』どころか『怨視』である」

写真の石柱は三角点です。恩賜林には関係ないのに、境界のしるしだと思われて赤いスプレーをされてしまった三角点標です。入会とは無縁の現在でも入会地の境界線となる(結構矛盾していますが、恩賜林の境界と入会地の境界はほとんど同じです。)林班の境は、何年かに一度整備されます。ここはその意味を知らない人が整備したのでしょう。三角点標と林班の標識の区別がつかなくて赤く塗ってしまった…


謝恩碑の案内板にあった地図です。塗られているところが恩賜林だということ。


長々と書いてきました。山梨県、独特の恩賜林の意味をお分かりいただけたでしょうか?
入会地の境界線、恩賜林の林班の境は尾根ベースです。山梨のやぶ山を歩くと境界見出標を見かけると思います。そんな時、こんな歴史を思い出すとなんか特別な思いが沸き上がるかもしれません!

2015年12月17日木曜日

塩ノ山

JR中央線、塩山駅のすぐ北にある塩ノ山です。地元の人は塩ノ山ではなく、塩山山えんざんやまと呼んでいます。塩山市、勝沼町、大和村が合併した甲州市の中心です。塩山の名前の由来は諸説あるようですが、塩ノ山の名前の由来がダイレクトに結びついているということです。写真の真ん中に、まるで海に浮かぶ小島のように見えているのが塩ノ山。「四方から見える⇒しほうのやま⇒塩ノ山⇒塩山えんざん」。塩SALTとは全く関係ないです。


日の出を見るというわけでもないのに、早朝から行動。これはちょうど6時くらいの様子。韮崎から塩山に向かっています。昨日までの、冬とは思えないくらいの気温の高さ。今日からは冬型の気圧配置になって寒気が下りてくるという予報でした。山梨の冬は基本晴れです。


麓から山頂までの標高差が約150m。「塩ノ山自然遊歩道」として整備されています。逆にされ過ぎている感があって、この階段上りはいただけません。


山頂


山頂の東屋で豪華な朝食会となりました。


目的は山座同定。冬型の気圧配置になって周りの山々がよく見えるようになって、塩ノ山の山頂からはどんな山が見えるだろう?という検証でした。残念ながら冬型が強すぎて、山に雪雲がかかってしまいイマイチの感じでした。ちなみに、ほぼ中央の三角の山が這松尾というピークです。


古今和歌集(日本最初の勅撰和歌集ちょくせんわかしゅう,天皇や上皇の命により編集された歌集のこと)に登場する塩ノ山ということだそうです。平安時代です。


まだ朝早かったので光の具合が難しい写真です。遠くに見えているのは小楢山1712m


塩ノ山遊歩道全部をトレースしました。ゆっくりゆっくりと。トレーニングとして歩くなら一時間はかからないでしょう。万歩計を持った方のカウントがだいたい6000歩でした。


エルニーニョ現象が天候不順の原因だといわれています。暖冬はあったかいわけではなく、気温の乱高下と南岸低気圧を警告しています。たくさん咲いていたツツジがなんとなく不気味でした。


立派な案内板。


向嶽寺こうがくじ  山号は塩山
塩ノ山の南にある立派なお寺。国宝があったり、国指定の重要文化財がいくつか。お庭がきれいで国指定の名勝に指定されています。塩山のルーツはここです。


2015年12月11日金曜日

八頭山地図読み募集

  

山と地形図がありさえすれば、どこでも地図読みの極意をお伝えすることができます。裸で山と向き合うことができる地図読み講習です。八頭山は僕の地図読み講習の原点の場所です。どうぞご参加ください!山との関係が変わることは間違いない山行になるでしょう!

 日時     :   2016年1月10日(日)


 参加費用   :  ¥8,000(ガイド料) 

                
 集合場所時間 :  韮崎駅  1月10日(日)朝 8:30 
                              
  行程 :  韮崎駅-武田八幡神社-八頭山-白山城-武田八幡-韮崎駅
                   
        標高差約400m 距離約4km

  持物 :1/25,000地形図 『韮崎』 (磁北線を入れて置くのがベターですが、当日お伝えします。)
             ベースプレートコンパス、昼食、行動食、水筒
              
■ 現在地の確認を中心に、地形を見ながら目的地までどう行くか?
  地図読みをしながらの登山の実践です。

   ・地形図(国土地理院25,000分の1)の話
    ・コンパスの基本的な使い方とルートの先読み
    ・地形図では表現しきれない地形
・晴れていれば山座同定
    ・地図読み以上に大切な地形読み などです。

どうぞご参加ください!  




◇ エントリー

   お申込みフォーム:こちらからどうぞ!

   催行にあたり、同意書は必ず必要です同意書は。:こちらからどうぞ。
     
   保険加入も必ず必要です。日本山岳協会の共済をお勧めしています。:こちらです。

2015年12月6日日曜日

日向山地図読み

日向山地図読み。マジ面白かったです!ご参加いただいたのは3人のうら若き女性。登山者たるもの地図ぐらい読めなくてどーする、と根性のすわった方々でした!その向上心、素晴らしいと思いました!合流して白州に移動して、地図読みのスタート。はっきり言います。やぶ山三ちゃんの地図読みは濃いんです!
いつもとは違う感じに、林道を無視して地形図と地形だけを見て登り始めたら、お出ました山の神の石祠。登り初めに昔の山の民の痕跡に出会うというのはモチベーション上がります。


ワクワク感に群がる女子!


女子がワクワクで見つけたマユ。ウスタビガのマユ。「天蚕(てんさん)」と表現される高貴な繭。失礼しました、これから糸は取れません。天蚕はヤママユガ。


地図読みだけじゃないっすよ。今から50年くらい前の痕跡も登場します。これは炭焼き釜の跡。


 大人気の日向山。山頂から真東の尾根のピストンというのが多いと思います。地図を読めるということが前提になりますが、矢立石からの一般ルートではない尾根から登ることができます。 地形図の北東に伸びる尾根です。こいつがなかなか味わい深い尾根なんです。読図必須です。

1221.5mの三角点。点名「田沢川」。群がる女子。いい感じです。登山道のない山の中で三角点の重要性を理解している方々!石柱にコンパスが置かれているのは、何等三角点と書かれている石柱の面が南を指しているのがルールと言ったからでした。確かに南を指している!


尾根上の立派なブナの木に、畏敬の念を感じている女子!


日向山の山頂に近づいているところからの景色。雄大です!


山頂に来ると出会える甲斐駒の眺め!すっごいですよね!見えているのは黄連谷です。

なんか最近定番になってしまった、昼飯のツエルト!とにかくあったかいんです。ナイロン生地一枚の、こっちとあっちは、天国と地獄と表現していいくらい違います。風対策ということです。この中で4人の人間が昼食をとりました。


いざ下山。このセクションを担当した方がはっきり言って何も考えずなんとなく下山、ありがとうございました。間違えたほうが理解度が上がります。確認できるところまで戻っていただいて、地形と地形図の説明をしてもう一度トライ。


リセットした場所が、日向山の三角点。写真が日向山の三角点です。


この尾根、結構侮れません。生き物の気配がいっぱいあります。これはブナの木の洞にあったブナの実の写真。リスでしょうか?ブナの実を集めていました。


一か月前にはなっかた、倒木に群がる女子。こういうのに注目する感覚はいいと思います。なんだよ!どうして倒れてしまったお前さん!って感じです。みんな心温かいから倒れた木にすり寄るんでしょう。


倒れた木の根元で活動していた歯が半端ないアリ。


大きな樹にも出会える尾根です。大きいので、各種サイズの洞もあります。


地面はまだ凍っていなくて枯葉のラッセルみたいになりました。気持ちいい感じです。


いろんな要素が詰まった山行でした。楽しかったのお言葉はありがたいです。


地図読み、簡単ではありません。何度も何度もご案内しますのでご参加ください!

2015年12月3日木曜日

服部文祥

サヴァイバル登山家として有名な服部文祥さんから電話がかかってきました。「地図読みと古道」という内容で取材をさせてくれとのこと。服部さんは岳人という雑誌の編集者です。今はモンベルがやっているのでモンベルの社員ということです。古道と読図どっちに比重を置けばいいのかな?なんてやり取りでした。こういうのは生ものです。特にテレビや雑誌、メディア関係は向こうに時間がありません。瞬時に思い付いたのが、6月にたくさんの方にご参加いただいた秩父でのイベント「秩父古道」でした。
これは、古道を考える上で大事なことをお伝えするというのがメインテーマの山行でした。飛鳥時代の官道、五畿七道がベースにあって、それを理解したうえで古道を歩くという内容でした。
これで行こうと服部さんとは、釜伏山のふもとの寄居の駅で待ち合わせ。車で釜伏山の東の中間平緑地公園から見た関東平野の写真をとっておこうと走り出しました。秩父は目的の地です。その秩父と古の古道を結ぶルート。地理的に秩父から東に古道を歩いて釜伏峠を越えたところから見える関東平野が大事!という展開なのです。景色は大事です。


なんか最近気になるこの時期の目立つ花。これは皇帝ダリアです。中南米原産のこの時期に咲く目立つ花。園芸種です。


中間平ちゅうげんだいらから関東平野を見下ろす。丸山剛カメラマン。


釜伏峠の案内板。この中に五畿七道が登場。古道のベースなんです。


荒川の長瀞が始まるところ、皆野町の下田野、谷草集落の西の尾根から取付きました。いつものように現在位置の確認と先読み。地形が特徴的なところで、地形図との照らし合わせ。服部文祥さんには失礼だったかもしれませんが、細かく地図読みを説明させていただきました。
彼はハンターです。落ちていた獣の糞を説明してくれました。臭いを嗅いでいるのはイノシシの糞だそうです。この森は獣の感じが薄いとも言っていました。


面白い猟師の言葉も教えていただきました。下の写真は山でよく出会う、獣が一夜を明かした痕跡が残る地面です。ネヤ(寝屋)というそうです。ここに寝たのは鹿。ちっちゃく見えている糞はハクビシンのものということでした。


登山道わきの山柿の木を思いっきりゆすって、落ちた実をガブリの図。どう考えてもタンニンの塊みたいなのに、とりあえずガブリ!としてしまう服部文祥氏。渋柿感いっぱいのお顔。


日本水やまとみず。とりあえず一杯。


釜山神社にお参り。


釜山神社⇒もともとは釜伏神社。名前が戦争遺跡という神社。


ぐるっと回って、中間平緑地公園に戻ったら冬桜が咲いていました。不思議な桜。


中間平緑地公園から西を見ます。真ん中右のピークが釜伏山。お釜を伏せたように見えますでしょうか?


車で釜伏峠を越えて西に下り、平草の集落下で出会った道祖神の道標。


服部文祥さんに秩父の古道をご案内して、そば食べてお別れして、国道140号線を山梨に向けて走り始めました。荒川を左岸から右岸へ。すっごい橋を渡りました。この日は秩父の夜祭が始まる日。町中がお祭りの準備に忙しい夕方という感じでした。武甲山の山頂は雲隠れでした。


心に余裕のない僕は、一刻も早く山梨の我が家に帰りたいという心持でした。いつか、いつの日か秩父の夜祭を楽しめる日が来るかもです。いい日でした。服部文祥さんとも気持ちが通じました。


ありがとうございました。