2017年11月12日日曜日

オベリスク

鳳凰山の続きです。中道ルートから真新しい新築の薬師岳小屋に泊まった翌朝。小屋から薬師岳の山頂まではほんの少しで着きます。まだ暁光の中、鳳凰三山のはじめのピークに立ちました。地蔵ヶ岳の尖峰オベリスクObelisk(英)はここでは見えません。


薬師岳から観音岳に向かう稜線は、遮るものがない大展望が広がります。鳳凰山のハイライトとも言える素晴らしい稜線歩きです。


いちばん標高が高い観音岳の山頂。


観音岳には三角点があります。熊野の修験者がこの夏に来たようです。


今の登山道をちょっと外れると修験者の道があるそうです。観音岳の北の稜線をちょっと外れたところにある六地蔵。


野呂川の谷と雲海。遠くに笊ヶ岳が見えます。


鳳凰山に登ったらぜひ会ってほしいカラマツの古木。稜線上には長年風雪に耐えた造形美と言ってもいいようなカラマツの古木がたくさんあります。この厳しい環境の中で生き永らえている樹々です。


花崗岩の風化と北岳3193m。


アカヌケの頭からの地蔵ヶ岳。奥、左側には八ヶ岳、右側には奥秩父。


「賽さいの河原」と呼ばれるアカヌケの頭と地蔵ヶ岳の間の鞍部です。子授け地蔵がたくさん安置されています。お地蔵さんを一体持ち帰れば子供が授かって、そのお礼に二体をお返しすれば子供は健やかに育つという信仰です。


花崗岩が風化した白ザレの鞍部から望むと、大空にすっと立つ大岩塔、オベリスクが自然の偉大さや神々しさを感じさせてくれます。


 ここからが本題です。下の写真は3年前のオベリスクのピークの上です。5~6人は立てる広さがあるピークです。岩登りの技術がないと登れません。誰でも登れるわけではないです。もちろん登ったら下らなくてはなりません、それもクライミング技術が必要です。


 オベリスクを初めて登ったのはウォルター・ウェストン(Walter Weston,文久元年 1861―昭和15年1940)イギリス人宣教師であり、日本に3度長期滞在しました。日本各地の山に登り「日本アルプスの登山と探検」などを著し、日本アルプスなどの山及び当時の日本の風習を世界中に紹介した登山家です。日本の近代登山の父とも呼ばれています。


「The Playground of the Far East1918年」➡日本語訳「日本アルプス再訪」 水野勉訳 平凡社ライブラリー1996年。この本の中にオベリスク登攀記が登場します。この日僕らはオベリスクのピークに登ったわけではなく、お鉢巡りのようにオベリスクのつけ根を一周しました。ウエストンの本にも登場する「鳳凰山天照皇大神」と彫られた石碑。


オベリスクのつけ根はロープを使わなくても一周できます。


もっとも古いと思われるお地蔵様。


賽の河原からオベリスクの付け根に登ってしまえば、10分ぐらいで一周できます。一周する間にはいくつか信仰の石造物に出会えます。


花崗岩の風化した岩塔が面白い連なり。


オベリスクは大きな岩が二つ重なり合いもたれかかったような形状です。賽の河原、アカヌケの頭側の西側と反対の東側にチムニーともクラックとも呼べる岩の割れ目があります。これは東側の割れ目です。以前からとても気になっていたこと、ウェストンはどちら側から登ったのだろう?登った方法は有名で、ロープの先に結び付けた石を投げ、二つの岩が接しているトップに引っ掛けて登ったというものです。写真の東側の割れ目のほうが少し傾斜が落ちるので、てっきりこちら側だと思い込んでいました。実際は西側の賽の河原のほうから登っています。現在でもオベリスクに登るのは西側です。3回登っている僕もそうでした。ウェストンのオベリスク登攀はロープを使ったということで、日本における初めてのクライミングだったと言われています。


「日本アルプス再訪」 水野勉訳 平凡社ライブラリー1996年を読んでみて分かりました。東側ではなく賽の河原側、西側から登っていました。それは、オベリスク登攀記とも呼べる第7章の最後の記述です。岩の割れ目に引っ掛けたロープは、登るにつれ邪魔になったようで離してしまい、最後は今で言うフリーソロで登ってます。下降時はロープを使ったようですが、今の時代のような懸垂下降というより手づかみでの使用だと思います。本人は奮闘した登攀を大いに評価されるだろうとの思いを持っていたようですが、それほどでもなかったようで、もちろん同行した芦安村の案内人の猟師は驚いて、芦安に神社を建て神主になって下さいなんてお願いしていますがウェストンは宣教師です・・・本人は本国イギリスでの評価がないということにがっかりしていたようです。なので「日本アルプス再訪」第7章の最後に、オベリスク第2登の記録をわざわざ書いています。ウェストンの初登が1904年(明治37年)その13年後の1917年(大正6年)英国人H.E.ドーントによると。丁寧にどう登りどう下ったまで書いています。


「The Playground of the Far East1918年」水野勉訳 「日本アルプス再訪」、初めて読んでみたのですが、お勧めですし面白かったです。同じ「The Playground of the Far East1918年」岡村精一訳 1970年「極東の遊歩場」という訳本もありますが、読むのだったら絶対に水野勉訳 「日本アルプス再訪」です。


この時のウェストンの山行、芦安村から入って杖立峠に登り南御室をベースにしてオベリスクを登る目的で入っています。芦安村の猟師3人がお供でした。オベリスクに登るという目的を達成した後は広河原に下り、北岳に登ったあと、大仙丈沢と小仙丈沢の間の尾根から仙丈ヶ岳に登って、北沢峠から戸台河原を歩いて高遠まで行っています。芦安村からのお供の3人の猟師、ウェストンがオベリスクにトライする直前にカモシカを見つけ、3人の内2人はカモシカ狩りに行ってしまいます。オベリスク登攀に付き合ったのは1人の猟師です。カモシカは猟師の餌食になって、その夜南御室で焼肉になったと書かれています。

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