2017年11月16日木曜日

上高地読図

上高地で地図読みをしました。当日はあいにくの雨。11月15日の閉山祭の迫る中の上高地は閑散としていました。


上高地バスターミナルから歩いて5分のアルプス山荘集合。公益財団法人日本山岳ガイド協会が運営している宿泊施設です。


地図に磁北線を入れます。用意した2万5千図は「上高地」「穂高岳」


持ち運ぶために地図を折ります。折り方のブログ記事はこちら


寒々しい河童橋。
上高地で読図?というむきもあると思います。地形の変化があればどこでも地図読みは出来ます。ただ本当は地図読みに向くところと向かないところというのはあります。


小屋締めをしていた明神館。
上高地はあまり地図読みに向いているとは言えない所。そこで標高点という地図記号に注目して歩きました。標高点は地図上の標高を特定した地点です。記号としては「・」です。プチっていう黒い点のあとに標高がふつう書かれています。三角点の柱石のような目印はありません。ただ沢の出合とか尾根の傾斜の変わる所、小ピークなどに示されることが多いです。なので、地形の変化があるので標高点を特定することは出来ます。河童橋から明神まで ・1514小梨平の東の交差点 ・1532六百沢が登山道と交差するちょっと上 ・1529梓川左岸明神橋手前の左 などの標高点があります。


・1545 標高点。登山道が白沢に架かる橋を渡ったところ、徳本峠分岐です。・標高点は三角点の近くにはありません、地図を使う人がより使いやすいように記入されたサービスという感じがします。つまり地図を読みやすくするために三角点とは別にある程度の範囲で標高を記す、それが標高点です。


・1555 標高点。徳沢の手前の梓川の河原が広がるところです。写真の先に大天井岳方面が見えるところです。残念ながら山座同定は出来ませんでした。地図を読みやすくするために三角点とは別に標高を示す標高点、むかし5万図が中心に使われていた頃は「標高点」ではなく「独立標高点」と呼ばれていたようです。そのなごりが「独立標高点」を略した「独標」という使われ方。槍ヶ岳の北鎌尾根の独標、西穂高岳の稜線の独標です。逆に言えば「独標」は「独立標高点」です。


徳沢園も小屋締め。ここにも・1532 標高点があります。


明神橋の上から見た梓川。ほんのり赤みを帯びたケショウヤナギの幼木。日本では北海道の一部(日高、十勝地方)と、上高地および梓川下流のみに生育するケショウヤナギです。


雨は止んだものの明神岳方面も見えません。


嘉門次小屋は営業していました。外国人がお蕎麦を食べていました。


梓川右岸の遊歩道を歩いて河童橋に戻って来ました。 地図記号:庭園路 遊歩道の地図記号です。正式名称は「庭園路」、庭園路は公園住宅地などで自動車の通行を規制している道路、ということだそうです。


翌朝の河童橋。


前日とは反対の方向に歩きました。もちろん読図の続きです。上高地帝国ホテル


田代湿原。


大正池の北の河原。焼岳が顔を出してきました。


昨日の雨、標高の高いところは当然雪です。白く輝く穂高岳連峰も顔を出しました。


最後の山座同定。昭文社の山と高原地図が活躍します。


朝の霧氷も落ちてしまった上高地のカラマツ林。


2017年11月12日日曜日

オベリスク

鳳凰山の続きです。中道ルートから真新しい新築の薬師岳小屋に泊まった翌朝。小屋から薬師岳の山頂まではほんの少しで着きます。まだ暁光の中、鳳凰三山のはじめのピークに立ちました。地蔵ヶ岳の尖峰オベリスクObelisk(英)はここでは見えません。


薬師岳から観音岳に向かう稜線は、遮るものがない大展望が広がります。鳳凰山のハイライトとも言える素晴らしい稜線歩きです。


いちばん標高が高い観音岳の山頂。


観音岳には三角点があります。熊野の修験者がこの夏に来たようです。


今の登山道をちょっと外れると修験者の道があるそうです。観音岳の北の稜線をちょっと外れたところにある六地蔵。


野呂川の谷と雲海。遠くに笊ヶ岳が見えます。


鳳凰山に登ったらぜひ会ってほしいカラマツの古木。稜線上には長年風雪に耐えた造形美と言ってもいいようなカラマツの古木がたくさんあります。この厳しい環境の中で生き永らえている樹々です。


花崗岩の風化と北岳3193m。


アカヌケの頭からの地蔵ヶ岳。奥、左側には八ヶ岳、右側には奥秩父。


「賽さいの河原」と呼ばれるアカヌケの頭と地蔵ヶ岳の間の鞍部です。子授け地蔵がたくさん安置されています。お地蔵さんを一体持ち帰れば子供が授かって、そのお礼に二体をお返しすれば子供は健やかに育つという信仰です。


花崗岩が風化した白ザレの鞍部から望むと、大空にすっと立つ大岩塔、オベリスクが自然の偉大さや神々しさを感じさせてくれます。


 ここからが本題です。下の写真は3年前のオベリスクのピークの上です。5~6人は立てる広さがあるピークです。岩登りの技術がないと登れません。誰でも登れるわけではないです。もちろん登ったら下らなくてはなりません、それもクライミング技術が必要です。


 オベリスクを初めて登ったのはウォルター・ウェストン(Walter Weston,文久元年 1861―昭和15年1940)イギリス人宣教師であり、日本に3度長期滞在しました。日本各地の山に登り「日本アルプスの登山と探検」などを著し、日本アルプスなどの山及び当時の日本の風習を世界中に紹介した登山家です。日本の近代登山の父とも呼ばれています。


「The Playground of the Far East1918年」➡日本語訳「日本アルプス再訪」 水野勉訳 平凡社ライブラリー1996年。この本の中にオベリスク登攀記が登場します。この日僕らはオベリスクのピークに登ったわけではなく、お鉢巡りのようにオベリスクのつけ根を一周しました。ウエストンの本にも登場する「鳳凰山天照皇大神」と彫られた石碑。


オベリスクのつけ根はロープを使わなくても一周できます。


もっとも古いと思われるお地蔵様。


賽の河原からオベリスクの付け根に登ってしまえば、10分ぐらいで一周できます。一周する間にはいくつか信仰の石造物に出会えます。


花崗岩の風化した岩塔が面白い連なり。


オベリスクは大きな岩が二つ重なり合いもたれかかったような形状です。賽の河原、アカヌケの頭側の西側と反対の東側にチムニーともクラックとも呼べる岩の割れ目があります。これは東側の割れ目です。以前からとても気になっていたこと、ウェストンはどちら側から登ったのだろう?登った方法は有名で、ロープの先に結び付けた石を投げ、二つの岩が接しているトップに引っ掛けて登ったというものです。写真の東側の割れ目のほうが少し傾斜が落ちるので、てっきりこちら側だと思い込んでいました。実際は西側の賽の河原のほうから登っています。現在でもオベリスクに登るのは西側です。3回登っている僕もそうでした。ウェストンのオベリスク登攀はロープを使ったということで、日本における初めてのクライミングだったと言われています。


「日本アルプス再訪」 水野勉訳 平凡社ライブラリー1996年を読んでみて分かりました。東側ではなく賽の河原側、西側から登っていました。それは、オベリスク登攀記とも呼べる第7章の最後の記述です。岩の割れ目に引っ掛けたロープは、登るにつれ邪魔になったようで離してしまい、最後は今で言うフリーソロで登ってます。下降時はロープを使ったようですが、今の時代のような懸垂下降というより手づかみでの使用だと思います。本人は奮闘した登攀を大いに評価されるだろうとの思いを持っていたようですが、それほどでもなかったようで、もちろん同行した芦安村の案内人の猟師は驚いて、芦安に神社を建て神主になって下さいなんてお願いしていますがウェストンは宣教師です・・・本人は本国イギリスでの評価がないということにがっかりしていたようです。なので「日本アルプス再訪」第7章の最後に、オベリスク第2登の記録をわざわざ書いています。ウェストンの初登が1904年(明治37年)その13年後の1917年(大正6年)英国人H.E.ドーントによると。丁寧にどう登りどう下ったまで書いています。


「The Playground of the Far East1918年」水野勉訳 「日本アルプス再訪」、初めて読んでみたのですが、お勧めですし面白かったです。同じ「The Playground of the Far East1918年」岡村精一訳 1970年「極東の遊歩場」という訳本もありますが、読むのだったら絶対に水野勉訳 「日本アルプス再訪」です。


この時のウェストンの山行、芦安村から入って杖立峠に登り南御室をベースにしてオベリスクを登る目的で入っています。芦安村の猟師3人がお供でした。オベリスクに登るという目的を達成した後は広河原に下り、北岳に登ったあと、大仙丈沢と小仙丈沢の間の尾根から仙丈ヶ岳に登って、北沢峠から戸台河原を歩いて高遠まで行っています。芦安村からのお供の3人の猟師、ウェストンがオベリスクにトライする直前にカモシカを見つけ、3人の内2人はカモシカ狩りに行ってしまいます。オベリスク登攀に付き合ったのは1人の猟師です。カモシカは猟師の餌食になって、その夜南御室で焼肉になったと書かれています。

2017年11月7日火曜日

鳳凰山中道ルート

鳳凰山は地元の山です。薬師岳、観音岳、地蔵ヶ岳で鳳凰三山と呼ばれる日本百名山のひとつです。いくつかある登山口の中道なかみちルートから登って縦走しました。下山はドンドコ沢の周回コース。スタートは釜無川の支流の小武川こむかわに車を走らせます。青木鉱泉の分岐を過ぎて林道が荒れているために通行止めで、登山口の大分手前から歩きました。


林道を歩き始めてしばらくして登場するこの倒木。去年「小武川」というブログ記事を書きました。この横たわる倒木は大昔の小武川で起きた山体崩壊の証拠です。887年に枯死したツガやサワラの木。「小武川」のブログ記事ぜひお読みください。


木の間から地蔵ヶ岳のオベリスクが見えました。


中道なかみちルートの登りはじめは標高1250m。標高1750mまではカラマツの植林地。
小武川一帯は戦後大規模な森林伐採が行われました。中道の登山口にはその頃の廃屋がありますし、製紙会社のホーロー製「火の用心」の看板も山中で見かけます。この1750mの傾斜の緩いところには伐採小屋があったようです。


1750mの緩傾斜を過ぎてからがこのルートのきついところです。傾斜が変化する標高2300m地点まで急傾斜の斜面が続き、段差も大きなものばかりで苦労するところです。


緩傾斜になってしばらくして登場する「御座石ございし」と呼ばれる大岩。


荒れた登山道。雨が降ると川になってしまう登山道の典型です。なかなか大変な状況。


2500mを越えるとハイマツが登場するのはいかにも南アルプスです。


建て替えが終わって、8月末から営業再開の薬師岳小屋に泊まりました。中道ルートはダイレクトに薬師岳に登ります。そして薬師岳小屋は山頂すぐ下に建っています。


部屋に案内されて窓際に行くと砂払岳が良く見えました。


新築で木の香りもするピカピカの小屋です。


食堂。ずいぶん明るくなりました。


寝室。両側のパーテーションがあるのでまるで個室の様なスペースです。新しい薬師岳小屋には個室もありますよ。


寝室は2階です。凄く広いスペースで、明り取りの窓も天井にあり明るいです。


小屋から5分で登れる砂払岳に登ると富士山と甲府盆地。


振り返ると薬師岳。ダケカンバの葉も落ちてしまいましたが、この感じは好きです。


あっという間に暗くなりました。


翌朝の日の出は見事な雲海の上に出ました。