2013年10月31日木曜日

赤岳天狗尾根


僕は、SMNGA(静岡山岳自然ガイド協会)に所属しています。
3人のガイドでガイディングをする予定でしたが、キャンセルになってしまいました。
それぞれ調整をして集まっていたのですが、諸事情で仕方ないです・・・
まぁ仕事がなくなっちゃったけど、せっかく集まったのだからトレーニング山行行くぞ!となりました。
出合小屋と天狗尾根


八ヶ岳の赤岳から権現岳までの南東面のエリアを地獄谷と呼びます。地図上では川俣川という川の上流にあたります。標高1860mあたりに出合小屋という高根山岳会が管理している山小屋があって、多くの登山者が有難く使わせていただいています。
地獄谷の尾根や沢のバリエーションルートは出合小屋を扇のかなめとして、八ヶ岳の主稜線に向けてそれぞれ広がっています。

出合小屋

新しいストーブと小屋内部

美し森の駐車場から歩いて約2時間林道歩きなのですが、この林道はもともとは木材を運搬するためのトロッコが通っていたようで、出合小屋辺りにも当時を彷彿とさせるこんなレールが残っていたりします。 

森林軌道のレール

出合小屋からすぐに赤岳沢に入り、10分くらい沢を登った左手から天狗尾根に取り付きます。
しっかりマーキングされているし、トレースも付いているのですぐわかります。


大天狗と龍頭峰


主に樹林帯を登りますが、こんな見晴らしのいい所もあります。
1か所岩場が出てくるところ。


尾根上で1か所傾斜のないところが出てきます。
ただ平ではなく岩もありますが、こんなテントサイト適地も出てきます。


いよいよカニのハサミ


振りかえりました。カニのはさみと真教寺尾根


いよいよザイルの出番となりました。


 今回は静岡山岳自然ガイド協会の中島和也さん、鈴木愛さんと一緒です。


大天狗の最後の登り


 左上バンドから大天狗のてっぺんを目指します。


高度感たっぷり!
大天狗のてっぺん手前です


大天狗のてっぺんから3種類の懸垂下降を練習しました。
これは肩がらみ


小天狗と主稜線


 チョウノスケソウ
この辺りはチョウノスケソウの枯葉が凄かったです。


大天狗を振り返りました。


赤岳山頂

山梨100名山の標柱と三角点


キレットと権現岳と南アルプス


 小屋終いしたキレット小屋

間近に見る天狗尾根 キレットの下りから



ツルネ東稜に向かう

古い標識

ツルネ東稜は地獄谷で唯一の登山道と言ってもいいトレースです。ただ一般道ではないし、傾斜もかなり急です。クライマーがつけた道。

新しい道標


無事下山

美し森駐車場、ドウダンツツジの紅葉が鮮やかです。


  












2013年10月27日日曜日

甲斐駒坊主尾根

先日久しぶりに山の友人に会いました。

山が好きで、30年以上前に山梨に引っ越してきたつわものです。彼のブログ

今多くのクライマーが訪れる、太刀岡山、甲府幕岩、兜山の岩場などは、彼の存在がなかったら開拓されることはなかったかもしれないキーパーソンです。
南アルプスと八ヶ岳の展望がすこぶるいい所に住む彼のブログを見ていたら、‘坊主尾根’という名前が出てきました。当時の事は忘れてしまいましたが、当時記録のほとんどないこの尾根を登ったことは凄いことです。
1984年1月5~8日、『岳人』442号記録速報


 北杜市武川地区から見た甲斐駒です。 


坊主尾根は大武川の本流と篠沢に挟まれた尾根です。黒戸尾根よりは短いものの道がないことを考えれば、やはり厳しい尾根です。つづみ、ヤニクボ、宮の頭などのピークが尾根上にあります。
大武川の篠沢を渡った橋のところにあるゲートの先から取りつきます。つづみまでは問題はありません。いったん下ったコルは岩が出てきてフィックスが張られていたりします。ヤニクボの登りにかかると長い尾根を実感します。

写真は宮の頭あたりから見た、摩利支天と仙丈と栗沢山です。


宮の頭山頂付近の様子


宮の頭あたりから見た甲斐駒


黒戸尾根八合目への登りだしから見た宮の頭
写真は3月と5月のものです。


この5月の山行の時は残雪を利用してサクッと登ろうとしたのですが、大失敗をやらかしました。
宮の頭の最低鞍部から傾斜が増して、岩も出てきます。60度切れるくらいの傾斜の雪面を快調に登り、岩をのっこしてテラス状のところに登ろうとしてました。雪が岩にぶつかるところは人が入れるくらいのシュルンドになっていました。そいつをまたいで、上に垂れさがるように生えたダケカンバの幹にピッケルをかけてぶら下がりました。岩のでこぼこにアイゼンのツメで乗っかって体を持ち上げた時に重心が変わってピッケルが外れ雪面を滑り落ちました。
木にぶつかりながら数十メートル落ちたところが傾斜が緩くなっていて、おまけにブッシュも生えていました。ブッシュにしがみついて止まった先を覗くと雪の詰まったルンゼが数百メートル落ちていました・・・
ルンゼまで落ちていたらお陀仏だったでしょう。
全身打撲で、しばらくは放心状態でした。戻るよりは黒戸の八合目を目指した方がずっと近い距離感です。でも体が動きません。夕暮れも近い時間になってます。とりあえず落ちた雪の斜面を這いつくばって左から巻いて寝るところを探しました。1人なので横になるスペースはいくらでもあります。少し登って尾根の向こう側を見ると、篠沢の上部と七丈小屋が見えました。ツエルトを張れば快適なねぐらです。気絶したように寝てしまいました。
翌朝、日が登ってだいぶたってから登り始めました。幸い骨には異常なかったのです。


案外八合目の台地が近くに見えるところにいたのですが、ハイマツの藪こぎ・・・


八合目台地までは地獄のような2時間でした。


黒戸尾根の一般道に出たとはいえ長い下りが待っています。
それでもハイマツこぎよりはましか!?と思いなおしての下山でした。
理想的には、五合目まで下ったら黒戸山に登って桑の木尾根を下るのですが、そんなこと言ってられませんでした。普通の倍くらい時間がかかって駒ケ岳神社に下山の報告をしたのでした。

やはり坊主尾根を30年前の冬にやった友人は尊敬しちゃいます!



2013年10月22日火曜日

木暮祭

 木暮理太郎(1873年 明治6年~1944年 昭和19年 )

歴史上の人物です。
多くの先覚者の礎があって、今の登山がある。いつもそんな風に感じています。

増富の金山平

 『東京帝大を中退後、東京市史の編纂に携わり、生涯をこの事業にかけた。生家から見える秩父の山並みに あこがれ、 若いとき から登山に親しみ、北アルプスや南アルプスに先駆的な足跡  を残す一方で、自ら名付けた奥秩父に田部重治らと足繁く通い、‘ 秩父時代’ともいえる時代を築き、その魅力を紹介し続けた。』
                                            ‘山梨岳連’第77号より

田部重治と木暮理太郎 左、田部重治と木暮理太郎(茨木猪之吉画)

『7回忌に当たる1950(昭和25)年ゆかりの人たちが、金山平の奥にある岩に記念のレリーフを埋め込み、命日に集 まって翁をしのんできた。命日は5月7日。ところが1954(昭和34)年の台風7号で岩が傾き無残な姿になったので、翌年、現在の場所に移転した。』

林の木々がすっかり大きくなって、現在では想像もつきませんが、木暮碑のある場所が選ばれた理由は、金山平のこの場所から金峰山、瑞牆山がよく見えたから、ということらしいです。

初めに木暮レリーフがあった岩

『本谷川上流の金山沢右岸の金山平には、金山の伝承が伝えられています。「往古金鉱があり、武田氏の時代には400戸の人家があり、金山千軒といわれた。」(北巨摩郡史)といいます。金山平の有井館には、水場から明治20年代に発見された鉱山臼があり、金山には、御岳型黒雲母花崗岩の地層のペグマタイトに掘り込まれた坑道3カ所が知られていました。須玉町史編纂のための調査として、金山金山遺跡の調査が1995年に、塩山市黒川金山・身延町湯之奥金山に次ぐ、甲斐金山として3番目の総合調査が行われています。
 金山山腹の標高1610m~1530mにかけて11カ所の坑道、試掘抗(狸堀)数カ所を確認することができました。坑道は縦長の金桶押法の坑道で、1~20mの長さで鉱脈を追って険しい山腹に掘り込んでいます。採掘された時期は、武田信玄の活動していた戦国時代から江戸時代までだといわれています。また、金山の北側にある「魔子の人穴」も金を採掘した鉱山の跡だといわれています。』                             増冨小学校HPより

木暮祭、いつもは金山平周辺の山に記念登山をして午後から碑前祭をするという流れです。
友人が朝迎えに来て、いざ記念登山!という感じだったのですが、あいにくの冷たい雨・・・
連絡が不徹底でおじさん二人が山に入ってしまいました。
木暮祭まで半日も時間があるので、金山平(かなやまだいら)の金山(きんざん)跡でも見物しながら‘摩子の山’でも登ろう、ということになりました。


木暮レリーフからマーキングされていて、地図も持ってなかったのですが、いくつかの穴を見学できました。人が入れそうな大きさですが、ちょっと腰が引けました。

摩子の人穴

坑道跡

坑道跡

坑道跡

‘摩子の人穴’のあるピーク


坑道跡も最後の中腹まで整備されていましたが、あとは藪こぎ。岩も出てきてややハード・・・
それでも時間がたっぷりあったので、ちょっと遊びました。
普段焚き火は任せろ!などと言っているもので、ではこの雨の中で火をおこせるか?ほんじゃやってみるじゃんけ!となりました。苦労はしたけどあったまりました。


帰りは一般道から金山平に戻りました。


木暮祭合流
木暮理太郎の出身地、群馬県太田市からの参加者もいらっしゃいました。


参加者にはあったかい‘ほうとう’がふるまわれ、
寒かったもので二回もおかわりしてしまいました!